豊玉姫伝説の地を巡る
川辺に封ぜられることとなった豊玉姫命は衣の郡をご出発になり、鬢水峠・御化粧水・飯野・宮入松を経て、取違にお泊りになった。 ここで妹の玉依姫命と行き先を違えられ、知覧へ向かい、城山(亀甲城)の下に宮居をお定めになって、知覧を宰領された。(由緒記より要約)
詳しくは→由緒
経路
児
島
市
宿
市
崎
市
娃
町
辺
町
伝説地の紹介・手法について
分類
この解説では、伝説地を大きく4つに分類した。
一つは、衣の郡。豊玉姫命が知覧・川辺に向けて出発した地名として伝わっており、移動を始める以前の豊玉姫命の生活が伝説として残っている地域である。 移動に関する伝説はほとんど残っていないが、記紀の神話と関連する伝説が多く、当社の創建起源とも関わるため収録した。
二つは移動時に関わる伝承である。前半は知覧町東別府区に残る一連の伝承群、後半は玉依姫命との行き先の取り違いから、到着地である知覧・川辺である。
最後の一つは知覧町内に残る、移動に関わらない伝承である。到着以降の生活の足跡と考えていいだろう。
衣の郡(旧頴娃郡開聞)
衣は頴娃の古名か。『続日本紀』文武四年の記事に「衣評督衣君県」とあるが、この「衣評」も頴娃郡を指すという説が強い。 いずれにしても、この由緒の「衣の郡」は「頴娃郡」を表したものであり、後述するように旧頴娃郡開聞(現指宿市開聞町)のあたりが出発地点と思われる。
枚聞神社
豊玉姫神社は古書に「開聞中宮大明神」とあり、枚聞神社の末社の類であったようだ。 それを証明する如く、建久年間に作成された図田帳にも智覧院(知覧の古名)の府領社(大宰府管轄の社/後の豊玉姫神社を表している)は開聞宮領に組み込まれている。
枚聞神社は薩摩国一宮として知られ、大日孁貴を主祭神とする神社であるが、かつては本殿に並んで八つの社殿が並び立っていたと記録、伝承が残っている。 それらのうち六つの社殿の御祭神は、海神豊玉彦命夫妻、彦火々出見命、豊玉姫命、玉依姫命、塩土老翁、および潮満珠・潮涸珠といった 山幸彦と豊玉姫の神話に関わる神々であり、和多都美(ワダツミ)神社という別称もあったという。
記紀における豊玉姫の神話は、この辺りで伝わっていた伝承が基になっているとも考えられる。
玉の井
枚聞神社の北方にあって、豊玉姫の使ったとされる井戸である。日本最古の井戸ともいわれる。「古事記」や「日本書紀」の神話に登場する井戸である。
「日本書紀」本文では、一人の美人(海神の娘:おそらく豊玉姫であろう)が井戸に水を汲みに来たところ、彦火々出見尊と出会う。 第一、第二の一書では、やはり井戸の前で彦火々出見尊と出会うのは「豊玉姫」となっている。第四の一書では「豊玉姫の侍者」と、 「古事記」では、海神の宮に到着した火遠理命が、豊玉比賣の従婢に見つかり、豊玉比賣はそれを見に行って出会う。
細かい伝承の差こそあれ、多くの記述に井戸が登場しており、それが「玉の井」であるという。
古くこの辺りは海であり、海神の宮の入口であった、或いは竜宮界との境であったとの伝承もある。
この辺りの字を「拝ヶ尾(はいがお)」というが、「拝顔」の変化したものという説があり、豊玉姫と彦火々出見尊が顔を合わせたところという意味であるようだ。
御返事川・御瓶子川(ごへしご)
玉の井東方にある川、宮川の上流、玉の井~仙田辺りを「ごへしご」という。
この川べりで、彦火々出見命と豊玉姫の恋愛が実を結び、結婚の御返事がされたことから「御返事川」とも、 枚聞神社の御饌の水として瓶子にくまれたことから「御瓶子川」とも、二つの由来が残る川である。
婿入谷
枚聞神社の西方にある伝承地で、彦火々出見命と豊玉姫命の結婚後の新居があったとされる谷。
出発地から頴娃郡内の経路
衣の郡を出発して知覧・川辺に向かった一行だが、出発以降知覧町内までのみちのりに伝承は残っていない。 これは、歴史的に見て、現南九州市頴娃町が頴娃郡頴娃→揖宿郡頴娃町であり、南九州市知覧町は河辺郡川上郷?→知覧院→給黎郡知覧郷→川辺郡知覧町と、 長きに亘り違う郡に組み込まれていたことが主な理由だろう。
豊玉姫命を祭る当社は知覧郷の鎮守であり、頴娃郷ではむしろ本社である枚聞神社とのつながりが強く、この地域では当社の創建に関わる事柄は伝承されなかった。
ただ、当社社家伝承によると、頴娃町高取川上流の赤崎集落を通った際に従者として従ったものの末孫が現在の社家であるとも言われる。
東別府周辺
現・南九州市知覧町東別府は一行の通り道として多くの伝説地が残っている。 地理的には、頴娃から知覧に入ってすぐの辺りで、現在でも知覧と頴娃とを結ぶ中間地点として交通量は多い。
一行の経路を見ると、地図を見てわかるように、一度大きく南西に折れ曲がってからまた北西へ折れている。
これは、頴娃町東南部(開聞方面)から知覧への旧街道と頴娃町西南部から川辺ヘの旧街道とを結ぶ支線であったとも考えられる。 諸々の真偽は不明であるが、伝承上では知覧・川辺と行き先が分かれるのは取違以降であり、知覧へは少し遠回りをした様子が見られる。
鬢水峠(びんみずとうげ/びんずいとうげ)・腰掛石
旅の途中、鬢の乱れが気にかかり「水があったら入れ櫛しよう」とおっしゃると、たちまち水が湧き出たと伝えられる。 この水を「鬢水」といい、地名として「鬢水峠」という名称が残っている。
この水は干ばつの時も決して枯れることがないという。
また道路を挟んだ向かいののり面上には、その折に豊玉姫命が座ったとされる石「腰掛石」が残っている。 このあたりではあまり見られない種類の石であるという。
この辺りは加治佐と枦場という集落を隔てる峠があり、現在は細い道がある程度であるが、かつては頴娃・知覧を結ぶ街道が通っていた。
御化粧水(おごそみず)
現在の浮辺川(加治佐川支流)で、化粧直しをしたとされる。
南方神社(東別府区鎮座)では、近代までここの水を使い酒を造って供進していた。 そのこともあってか、この辺りの字は「御酒水」と書いて「おごそみず」と訓じる。
飯野(いいの)・白水
豊玉姫命一行が昼食をとったところと伝わる。現在は集落名に飯野の名が残っていて、飯野姓を持つ家も多くある。
その時干飯を洗ったところはそれ以降白い水が出るようになり、白水と呼ばれるようになった。 また干原という地名も伝わっているが、これは、干飯を作った時に使った砂を捨てたところであるという。
宮入松(ぐれまつ・ぐいげまつ)
古く飯野~塗木(ぬるき)は頴娃・川辺を結ぶ街道で松が植えてあった。一行はここで行列を整えられたと伝えられる。 一行が列を正した時に輿が停まったとされる場所に碑が立っている。
知覧・川辺
いよいよ到着地である知覧・川辺を紹介する。
姉妹の神はそれぞれ川辺と知覧とを治めることとなっていたが、お互いの行く先を違えてしまうこととなる。
取違(とりちがい・といたげ)
知覧に向かう予定だった玉依姫命が、川辺の方が水田に富んでいると知り、米を玄米のまま炊き、そのまま川辺ヘ出発してしまった。 豊玉姫は仕方なく知覧へ向かったといわれる。玉依姫は足の速い馬で、豊玉姫は足の遅い牛でそれぞれ向かうこととなったとも伝わる。
この行先取違の伝説は、当社の由緒中で最も有名な一節であって、この地には「取違」という集落が今なお残り、 「取違」という苗字を持つ家も多数存在する。
現在の取違集落公民館脇には、古くより取違の鎮守神として豊玉姫命が祀られているほか、豊玉姫の侍医の命が祀られている。 これは、伝説の中で一行が取違の地に滞在した折、豊玉姫命の侍医という従者が、集落民を施療してくださった御恩を讃えて祀っているのだという。
知覧
仕方なく知覧ヘ向かった豊玉姫命は、城山(後の亀甲城/蜷尻城とも)の麓に居を定めた。
この宮居の跡にお宮が建てられ、豊玉姫命を祭ったのが当社の始まりと言われている。 現在の社殿から東に3km程のところで、現在でいう武家屋敷森重堅邸の辺りだったと伝わる。その碑が今なお残っている。
武家屋敷が作られた江戸時代はもとより、それ以前もこの近辺は知覧の中心部であったと考えられている。 現在も河上(こかん)という集落名が残っているが、『和名抄』における河辺郡川上郷はこの地であって、河上集落はこの名残であるとの説もある。
またその東方八反畑というところの田んぼの中には、豊玉姫の御陵と伝わる小塚が残っている。
ここは、古来鋤鍬を入れてはならないところとして、周囲が開墾され開田した後も、旧状のまま残された。 元は木々が植わった林であったという。
川辺
一方、取違から猿山を越え川辺へと向かった玉依姫命は、飯倉山の麓に居を構える。ここに創られたのが飯倉神社である。
現在の飯倉神社は後に遷座されたもので、現在の鎮座地より南西に約1kmの所に飯倉山がある。
経路外の伝説地
一行の経路とは別に、いくつかの伝説地が伝わっている。これは、豊玉姫命が知覧を宰領されて後の御事績に関わる伝承であろうと思われる。
乳水
豊玉姫命が御子の尊に差し上げたと伝わる水である。御子の尊とは鵜葺草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)である。
記紀の神話を参考にするならば、豊玉姫命は、ヤヒロワニ(大きな鮫の意であろう)のお姿になって出産する姿を夫に盗み見られ、 御子をおいて海に去られたという。
海から離れた知覧の地に、乳水の伝説地が伝わるということは、記紀に描かれる豊玉姫命のご出産は、豊玉姫命が知覧を宰領されるより 以前のことであると考えたほうが、筋が通りそうである。しかし、御子を養育し、後に御子との間に初代神武天皇をもうける玉依姫命が、 ともに衣の郡より川辺に向かったとすれば、こちらも筋が通らなそうでもある。
乳水はじめ、他の伝説地にも、記紀の神話との時期の前後については伝わっていない。
鬢石(びんいし)
知覧と川辺との境、猿山の上にあって、豊玉姫が腰かけたとされる石である。 ここに腰かけて、鬢をくしけずったという伝承があり「鬢石」と呼ばれている。
『三國名勝圖會』飯倉神社の一節に「宮村猿山営址の上に、皇女の御髪を梳し跡とて、鬢石と云石あり、其故は審ならず」とのみあり、 豊玉姫、あるいは玉依姫ではなく、別説の天智天皇皇女の伝説ともとれる記述となっており、古くから複数の説があるようだ。
猿山は古く「舎利山」と書き、頴娃―川辺をつなぐ主要道で、川辺と知覧との境に当たる要害の地である。
まとめ
豊玉姫伝説の地を概観すると、知覧・川辺および開聞地域において、数多くの伝説が伝えられていることがわかる。
いわゆる記紀神話の上でも重要な役割をもつ豊玉姫命は、日本中の多くの神社に祀られている。 しかし、周辺の神話等から鑑みても、南九州を舞台とする「日向神話」の中の神話であって、鹿児島・宮崎がその神話のふるさとであることは想像できる。
当社や知覧に伝わる伝説は、ほとんど記紀神話を無視したかの如く、「知覧で豊玉姫命が祀られる理由」についてのものばかりであるが、 開聞まで目を向ければ、当社の由緒は記紀神話にも接続しそうである。