知覧町内の神社(当社宮司兼務社)

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豊玉姫神社
松尾神社
伊勢神社
白石神社
稲荷神社
南方神社
南方神社
鹿




(南九州市)
頴娃町
(南九州市)
川辺町
東シナ海

伊勢神社

鎮座地南九州市知覧町郡5948-2
御祭神大日孁尊(天照大神) 伊弉冊尊 菅原道真命 大山祇神
由緒主神は天照大神であるが、明治四十三年に愛宕神社・菅原神社・宮毘神社・山ノ神神社の四社を合祀した。
縁起には記録の徴すべきものがない。しかし石燈に永禄の年号を刻んであるところから察すれば、四百年前の創建は間違いあるまい。 とまれ、百五十余の階段上の境内には、桧・樅・松・桜・楓などの老樹多く、春の花、秋の紅葉の名所であり、祭神がわが国の始祖神であるところから、 森厳の気域にただよい、由緒の深きを思わせる。
昔から当社を中心とする御伊勢講・愛宕講というのがあった。崇拝者は輪番で酒肴を献饌し、祭典に列席して玉串を奉奠する。 祭典終了後献酒の幾分を集落の講に持ち帰り、他の会衆に頒つ風習は今なお存続している。

松尾神社

鎮座地南九州市知覧町厚地26
御祭神味鉏高彦根命
由緒祭神は味鉏高彦根命を主神とするが、維新当時、他の無格社を数社合祀したという。 記録がないので縁起は明らかでないが、石燈に永禄の年号があり、神殿内の棟札に慶長二年五月再興の記録があるので、 起源は少なくとも四百年前にあることは明らかである。
古来「厚地」区の産土の神として、区民の崇敬厚く、特に子供好きな神様であると親しまれている。
味鉏高彦根命は、出雲国の大国主命の御子で、事代主命(恵比須様)、建御名方神(お諏訪様)と兄弟の神様であり、 別名一言主之神と称し、凶事も吉事も一言で言い放ち解決実現する威力を持つ神様とされている。

白石神社

鎮座地南九州市知覧町永里字柴立5079-2
御祭神猿田彦命 建御名方神 事代主神
由緒創建の年代は不詳であるが、主神は伊勢大廟の脇宮であるところから語り伝えがある。 昔、上方で「ウンカ」申す事が始まって、社堂の破壊があった際、士族の鰺坂直次郎という人の先祖が、神体を守護申しあげ夜中に逃げ下った。 それを東別府村の内白石という所に勧請した。その後永里村の内宮園へ御遷座申し上げたのである。 古くは寄付が多く、高も百石ばかりある大社であった、と旧記にも記されていたという。但し「ウンカ」とはどんな事か、その訳は分からないといわれる。
慶長五年子二月本橋蔵助という棟札がある。
内務省の方針で全国の神社合祀のことがあり、樋与上より移転して、南方神社を合祀して現在に至っている。
祭神猿田彦神は天孫降臨の砌り、天孫を天八達衢に迎え奉った神で、不浄を忌みきらうとして、神前の町道を遺体・遺骨は横切れず、 廻り道をして通る風習が現在でも残っている。

南方神社

鎮座地南九州市知覧町西元5666
御祭神建御名方神 事代主神
由緒創建の年代は不詳であるが、元禄十二年知覧社数改帳と宝暦六年の神社差出帳には、霜出と菊永に、諏訪大明神が記載されている。 そして明治十三年の神社取調帳には、両社が合祀されて西別府村の宗社南方神社として登場している。
神話によると、天照大神が建御雷命を使者として、葦原中津国を天孫に譲渡せよと、出雲の大国主命に御下命があった時、大国主命は事代主命と建御名方命の二人の 子息と相談された。そのとき事代主命は恭順をすすめて父子服従されたが、建御名方命は反抗して千引の岩で手向いされ、負けて遠く信濃の諏訪までお逃げになり、 そこで八坂刀売命を娶り善政を布いていた。のち前非を悔い恭順を誓って諏訪神社の祭神となられた。
島津氏は各地に諏訪神社を勧請され、武神として崇敬が厚かったといわれる。当社もその流れを汲む一社である。

稲荷神社

鎮座地南九州市知覧町瀬世5092
御祭神豊受姫命
由緒創建の年代は不明であるが、伝説によれば、塩屋区大隣の瀬世岳(今の大隣岳)に祀ってあったのを、 大隣から瀬世への移住の人々がひそかにご遷座申上げた。その時は冬で雪の降る寒い日であったところから、今もお祭りには紙片を撒いて降雪に擬し、 また追手を弓で防いだ古事に真似て、矢を射る神事が残っている。
祭典の直会には、車座を皆後向きに坐し、奪還を警戒する模様を示現する習慣もあったという。
祭神の豊受姫命は、大宜都比売神・保食神など多くの別名ある神で、稚産霊神の御子にまします。 天下生民の食うて生くべき食物を主宰する産霊の大神で、伊勢の皇大神宮の御饌都神として、斎き奉る豊受大神である。外宮と申す。 天照皇大神は、この神から五穀の種子を受け陸田・水田に植えしめ、天孫降臨に際してはその種子をお授けになった。
霊験あらたかなる神として地方の信仰が厚い。

南方神社

鎮座地南九州市知覧町東別府諏訪山10854
御祭神建御名方神 事代主神
由緒御神体は鎌である。はじめ田付の次郎左衛門の宅に鎮座していたが、後アサギクという人の家に遷り、 その間に時折、御神体の鎌が見えなくなって驚いて探してみると、いつも諏訪山の木の枝に掛かっていた。 そこで皆と協議の結果、御遷座を希望しておられるということになり、鎌がかかっていた場所に社殿を造り、御遷座を願った。 そこは現在より少し上方であったが、大正十三年三月二十九日今の所に遷座した。
この神は、戦争には必ず出征されると言い伝えている。 その時は、夜の静寂を破って米搗きの音が近所に聞こえてくるといい、もし戦争が一年なら一晩、二年続くときは二晩、米搗きの音が聞こえると言い伝えている。 また時には、太鼓の音の中で、賑やかに舞をお舞いになることもあるが、もしのぞき見すればその者は、必ず災難に遭うと信じられている。
昔は豊玉姫にゆかりの御化粧水にて神酒を造り供進していた。また頴娃横浦の塩を供進した伝えもある。